さて、今日は竈の家の利用方法について記載する。
利用するのはおおむね知り合いばかりだが、それでも全員が正しい利用方法を 認識しているわけではなさそうだ。 なので、最近こんなチラシを置いた。 【竈の家しょうかい】 築110年をこえる民家です。 通り土間のある田の字型民家の特徴をそのまま残しています。また大正末期から昭和 初期にかけて造られたレンガ造のかまども健在です。 しばらく空き家でしたが、現在はこのかまどを使ってかまどご飯を炊く「竈の会」を催したり、打合せに使っていただいたり、或いは、ただ のんびりしたい&宿泊に利用したいという方のために開放しています。 ご利用に当たっては裏面の「竈の家ご利用きてい」をご覧ください。 お申込みは、直接かまど管理人まで。かまどブログからもアクセスできます。 「竈の会」の様子やこの家の詳細は、時折かまどブログで紹介しています。 ~ URL http://kamado.exblog.jp ~ タイトル かまどと猫のいる生活 【竈の家ご利用きてい】 現在、利用料はいただいていません。 その代わり、1回のご利用につき、1奉仕作業をお願いしています。 作業は何でも構いません。かまどのチリ落し、土間や床の掃き掃除・拭き掃除、 庭の草取り、薪割り等できること一つで結構です。 棚を作ったり、外壁の傷み、土壁やかまどの補修等、本格的な大工工事&左官工事も できる方がいらっしゃれば大歓迎です。 作業をされましたら、作業内容を「かまど帳」に記録しておいてください。 竈の家の感想や差し障りがなければ連絡先(MAIL)なども書いておいてくださるととても嬉しいです。 ブログ(http://kamado.exblog.jp)への書き込みも大歓迎です。ご記入いただいた方には、今後の催しについてお知らせ致します。 幸い、今日は新客をお迎えする。 竈の会メンバーの面々と近隣の建築関係者たち、どんな話がここで繰り広げられるのだろうか? 私も初めての友人(美女!)を連れて参加することにする。 #
by uneme_tayuu
| 2006-04-22 11:18
| かまど通信
|
Comments(4)
竈の家のカマドは、重文民家などでよく見かける土製のカマドではなく、洒落たタイル張りの西洋クドである。
カマドも時代により変遷があるが、おおむね大正時代の中ごろまでは、粘土質の土でできた土クドが主流であった。所謂ヘッツイである。 その後、大正の末期から昭和の初期になると、ロストルという格子状の鋳物の板を中に敷き、表面をレンガで固めた西洋クドが広く使われるようになる。 ロストルの上で薪を焚く西洋クドは、焚口の下に通気口があり煙突を付けているので、熱効率は土クドに比べてはるかによい。また灰も取り出しやすく勝手がよい。 市史によると、市域に残されているクドもほとんどがこの西洋クドであるそうだ。 伯母の記憶によると、竈の家のカマド(通常オクドさんと呼ばれている)は、伯母がまだ小学生の頃、手先の器用な近所のカンイチさんの手によって土クドから造り替えられたのだそうだ。 伯母は大正生まれであるから、時代の流れと合致している。 今はなくなってしまっているが焚き口には鋳物の扉がつき、ロストルもあった。 今も残っている西洋クドとしての特徴は、煙が直接屋根の外へ出るよう工夫された煙突だが、その煙突もいまは中央で大きくひび割れ、応急措置でもたせてある危ういものだ。 鍋釜をすえる釜口の数は、左からハソリ用、釜用、ステクド、さらに一回り大きなハソリ用の釜口と合計四つ。 大勢の家族が同居した当時の標準的な数である。 ちなみに、ステクドとは湯を沸かす専用の釜で、焚き口はなく両側の火力の余熱でひとりでに湯が沸く仕組みのもの。 表面に張られたタイルは装飾と耐火の役割をはたした。 *** さて、このように土クドから改良された西洋クドも、昭和30年頃から製造が始まったプロパンガスの普及により、ガスコンロにとってかわられることになる。 今またガスコンロは、IHクッキングヒーターにとってかわられようとし、人々が炎や煙を目にする機会はますます減っている。 *** 火を使うことでヒトとなり、火を使わなくなりヒトはこの先何になるというのだろう? #
by uneme_tayuu
| 2006-04-15 23:15
| 竈の家紹介
|
Comments(2)
竈の家の入口には常夜灯がある。
弘法大師ゆかりの大日の井戸にかかわる大日堂があった古い集落の中ほどの街道沿い。 街道は、今も昔の地名がそのまま残る近郊の集落に通じ、街道の北側には川が流れる。 その川を内部川といい、その川の対岸、支流足見川と合流する地点の丘陵地には、かつて采女城があった。 城は、文治年間(1185~1190)に伊勢平氏後藤兵衛門基清により築城されたと伝えられ、永禄11年(1568)織田信長の侵攻によって滅亡するまでは、代々、後藤家がこの地を治めていた。 その頃は、常夜灯の灯る城下の集落、古市場もよく栄えたと思う。 竈の家の前の常夜灯は、実は、それほど古くはない。明治9年(1876)に建替えられたもので、市域に残る常夜灯の中ではもっとも新しいものではないかと考える。 夕方辺りがほの暗くなると電気がともる。 夜道を車で向かうと闇の中で小さな明かりがポツリ。少し手前で確認できるその明かりは今もほどよい目印である。 周辺の無機質なプレハブ住宅が闇の中に隠れ、同じ場所に佇んでいた先代の常夜灯が、同じように往来する人々の手がかりとなった昔を想うのにちょうどよい。 【采女城の由来】 藤原氏を祖先とする後藤家の後藤兵衛実基は保元・平治の乱(1159)に武功を顕し、後藤左衛門基清が検非違使として京都守護に活躍、元久元年(1204)平賀朝雅の討伐に奮闘した。 後藤伊勢守基秀は、文応元年(1260)先陣武功があって、三重郡采女郷の地頭職となり一族郎党を引連れて采女の地に移住、采女山(北山)に城郭を築いた。 以来300有余年、連綿と治世して続いたが、後藤采女正藤勝の時、織田信長の侵略に遭った。 関家・蒲生家に一味して戦ったが、永禄11年(1568)ついに落城した。 言い伝えに因れば城主・藤勝は討ち死し千奈美姫も主郭の深井戸に身を投げて父の後を追った、哀れなり。 (平成16年5月 内部郷土史研究会 采女城保存会 作成の案内板より引用) #
by uneme_tayuu
| 2006-04-08 08:23
| 竈の家紹介
|
Comments(4)
誰の心にもあるらむおのおのの太陽
遠くに行くを人づてに聞きて詠める 太古より はるか遠くに 仰ぎ見つ 幾山越えて もこそ変わらめ ・・・・・ 采女太夫 #
by uneme_tayuu
| 2006-04-01 09:21
| 雑
|
Comments(0)
10代の頃、記録写真という言葉を知らなかった。
その頃、想い出は、頭の中の記憶だけで十分だと思っていた。 比較的自由だった当時、いろいろな処を旅したように思う。 けれど、今その記憶をたどる糸口を私は自分の記憶以外には持たない。 そう、つまり旅の記録や写真はほとんどと言ってよいくらいに何もないのだ。 どこへ行くにもカメラを手にした日本人、海外のショップでブランド品を買いあさる日本人 そんなイメージが嫌いだったから 私はお土産も買わなかったし、カメラも持たなかった。 そんな私をいぶかしがる現地人が写真を撮って送ってくれたりしたこともあった。彼らは一様に、「なぜ日本人なのにカメラを持たない?」「本当に日本人か?」と聞く。そして、「ここを撮るとよい」「この場所を日本人はみんな写真に残していく」と親切に教えてくれる。 彼らにしてみればその国のお国自慢でもあったろうその観光スポット、だが、それだけならよいのだが、彼らは風景だけでなく、私の容姿までも一緒に写真におさめようとした。 残念なことに、当時、写真に写る自分の姿・形はどれもあまり好きではなかった。 だからせっかく送ってくれた写真も、無造作に放置してしまったし、その後の手紙のやり取りさえどうかすると忘れてしまった。 「N・Yの危険地域は上から見るとよくわかるよ」そう教えてもらいながら登ったのはエンパイア・ステイトビルの屋上だったろうか?それとも倒壊されてしまった貿易センタービル? 近代美術館の前の階段に群がる人たちの映像は、自分の記憶だろうか?それともどこかの雑誌で見た写真の記憶? ネス湖だって、確かに足を運んだはずなのに、思い出そうとすると、ネッシーの描かれた漫画チックな絵が記憶の再現の邪魔をする。 一事が万事こんな風だ。曖昧な記憶と無関係な記憶はない交ぜになって真相を妨げるし、それ以上に消えてしまった記憶は計り知れない。 だが、私が嘆いているのは、そんな記憶の曖昧さや失くしてしまったものなどでは、 もちろんない。 その頃は、脳の一番優れた能力が「忘れること」だということも、「記憶の曖昧さ」が人間関係を支えていることも、なにも知らなかったが、 新たに生まれる好奇心で心はいつも満たされていたし、何より経験が、人生の肥やしになると信じていた。 そんな私が、いま、ほんの少しだけ後悔しているのは、被写体に向かう姿勢。 写真を撮るという習慣が自然には身についていないこと。 ようやっと、仕事上でも、写真を撮る機会が増えたので、こんなことを言うと意外に思う人が居るかもしれない。しかし、事実、実際にはまだまだ、肝心なときにカメラを忘れる。 運よく持っていても人に出遅れる。シャッターチャンスを逃す。被写体をうまく捉えられない。ぶれる。アングルが気に入らない。たくさん撮ったつもりでも似たような写真が重なって実際には役立たない。・・・言い出せばきりがないくらいに嘆かわしいことだらけだ。 他人の写した写真を見る機会に及んでは更にがっかりさせられる。そして、必要とあらば、完敗ののちにその写真を譲り受けることになる。 *** 以上、長々と語ったのは、つまりはこのブログにいまだ写真が一枚も掲載されない、苦しい言い訳。 文章だけもそんなに悪くないわよ。そう思うこともある。だけど、私は、竈やそこに集う人、古民家の自然だけでなく、愛猫の写真を記録としてここに残したいと思っているし、それを待っていてくれる人もきっとあると思う。 だから、いつも次こそは!と思うのだが、いま!という瞬間に、残念ながら、今のところカメラはない。 果たしていつも思うのである。 愛猫と戯れる私を写真におさめてくれるパートナーを探すことと、写真のセンスを磨くこと。 いったいどちらが容易いことなのだろう?かと。 #
by uneme_tayuu
| 2006-03-25 08:59
| 愛猫
|
Comments(0)
|
カテゴリ
以前の記事
2024年 07月
2024年 06月 2024年 05月 2024年 04月 2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 more... りんく
最新のコメント
最新のトラックバック
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||