竈の家の背景
竈の家の入口には常夜灯がある。
![]() 弘法大師ゆかりの大日の井戸にかかわる大日堂があった古い集落の中ほどの街道沿い。 街道は、今も昔の地名がそのまま残る近郊の集落に通じ、街道の北側には川が流れる。 その川を内部川といい、その川の対岸、支流足見川と合流する地点の丘陵地には、かつて采女城があった。 城は、文治年間(1185~1190)に伊勢平氏後藤兵衛門基清により築城されたと伝えられ、永禄11年(1568)織田信長の侵攻によって滅亡するまでは、代々、後藤家がこの地を治めていた。 その頃は、常夜灯の灯る城下の集落、古市場もよく栄えたと思う。 竈の家の前の常夜灯は、実は、それほど古くはない。明治9年(1876)に建替えられたもので、市域に残る常夜灯の中ではもっとも新しいものではないかと考える。 夕方辺りがほの暗くなると電気がともる。 夜道を車で向かうと闇の中で小さな明かりがポツリ。少し手前で確認できるその明かりは今もほどよい目印である。 周辺の無機質なプレハブ住宅が闇の中に隠れ、同じ場所に佇んでいた先代の常夜灯が、同じように往来する人々の手がかりとなった昔を想うのにちょうどよい。 【采女城の由来】 藤原氏を祖先とする後藤家の後藤兵衛実基は保元・平治の乱(1159)に武功を顕し、後藤左衛門基清が検非違使として京都守護に活躍、元久元年(1204)平賀朝雅の討伐に奮闘した。 後藤伊勢守基秀は、文応元年(1260)先陣武功があって、三重郡采女郷の地頭職となり一族郎党を引連れて采女の地に移住、采女山(北山)に城郭を築いた。 以来300有余年、連綿と治世して続いたが、後藤采女正藤勝の時、織田信長の侵略に遭った。 関家・蒲生家に一味して戦ったが、永禄11年(1568)ついに落城した。 言い伝えに因れば城主・藤勝は討ち死し千奈美姫も主郭の深井戸に身を投げて父の後を追った、哀れなり。 (平成16年5月 内部郷土史研究会 采女城保存会 作成の案内板より引用) ![]()
by uneme_tayuu
| 2006-04-08 08:23
| 竈の家紹介
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