カテゴリ:竈の家紹介( 9 )

外壁 その1

竈の家の外壁は、四方ともにそれぞれ表情が異なる。
一番荒れている西面は写真のような悲惨な状態。
修繕作業の撮影のとき、ジャッキで土台を持ち上げた箇所の
すぐ裏手に当たるのだが
杉皮がめくれて下地の土壁や小舞竹が丸見えだ。
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ここを見たとき、ふとどこかで見たような・・・・?と思った。

そうだ、そうなのだ。
明治村にある重要文化財「東松家住宅」と似ているのだ。

片や当時でも珍しい三階建て商家の木造住宅と、片やツシ二階の農家の住宅。
似ていると言うにはちょっとおこがましいが、
外壁に杉皮が使われているところは同じ。

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実は、数年前明治村で東松家を見たとき
ムム、どこかで見たことがあるような・・・?と思ったのだった。
そのときは、まさか自分が過去に生活したことのある家の外壁とは
思いもつかなかったが、
そのときの体験は既視感ではなく、まさしく実体験だったということだね。

東松家の方は、建築当初から裕福な商家の住まいとして建てられ、三階建てながら
侘び寂びも感じられる繊細な造り。
移築時には修繕も施されているので見た目にもすっきりと美しい。
竈の家はといえば、当時よくある普通の民家。
家の裏側に当たるので、恐らく修繕など一度もされていないだろう?
建築当初から、さすが材木屋とでもいうのか、
杉皮の押さえに丸太の木皮を利用したりと上手に工夫してはいるが
侘び寂びというにはほど遠い。


今では建築基準法、消防法の規制が絡み、こんな外壁は使えないだろう。
できることならここも美しく直してみたいものだ。
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by uneme_tayuu | 2006-08-05 23:58 | 竈の家紹介 | Comments(2)

自然の恵み

先週、偶然に見つけた茗荷の花。
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「ミョウガ買い忘れたけど、どっかその辺にあるんじゃない?」
呼応するように
「さっきその辺で見かけたけど・・。」
そんな何気ない会話に私の方が驚いた。
夏といえばミョウガ、というくらい好きなのに、スーパーでパックになって売られているミョウガしか知らなかった。

そういえば、この庭には日本の薬草がいくつか、栽培されるでなく、育っている。
「山椒」、「紫蘇」、「月桂樹」、「山茶花」、「金柑」、「柿」・・・
まだまだ他にあるかもしれない。

これもまた日本人の知恵なのだね。
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by uneme_tayuu | 2006-07-29 18:26 | 竈の家紹介 | Comments(6)

水ヌキの池

ここが何処かわかる人はかなりの竃の家通かもしれない?
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草刈もほどほどのかなり荒れた竈の家の敷地の一部。

実はこの辺りは、昔、池だったらしいのだ。
曽祖父が始めた材木屋家業。
祖父の代になって「商売を大きくするならやはり東海道に出ないかん!」と
店と自宅を別々にするまでは、この家で商いが営まれ、
地元の大工さんが出入りをした。
木材は、牛車を使い数人がかりで、3本か5本ずつ、近くの山から運んでいた。
そんな頃の話だが、驚いたことに、ここはその当時、山から切り出された木材を
水中乾燥するための池だったのだ。

一反ほどある敷地だが、今は5倍の広さの土地で仕事をしているので、母から
「昔はここで商売をしていたやんに。」と聞かされたときでさえ、こんな狭いところで
どうやってできるの?と思ったものだ。
それなのに貯木場まであったとは!驚きというほかには言葉が出ない。
現代のようにスピード化された時代ではないので、木材の乾燥も
のんびりと半年から一年はかけていたという。
そんな頃の規模でいう半年分の木材の量がどれくらいだったのか?
数人がかりで運んでくる木材がどのように狭い敷地の小さな池に浮かんでいたのか?
池の深さや大きさは?水路はどうやって?
そして結局いつ埋め立ててしまったの?
まだまだ聞き足りないことはたくさんあったのだが・・・


「水に浮いとる木の上をな、池に落ちんようにポンポン飛び移るんが子供の頃の
ええ遊びやったんや。おてんばやったさかい、よぉ父親から叱られたもんや。」


このことを教えてくれた伯母は、最後にはそう言って昔を懐かしみ笑いながら
ひとりでに電話を切ってしまった。

切れた受話器を置きながら、私も思い出した。

そうだ私も!山積みされた原木の上や下が・・。飛びのったり、隠れ家にしたり、僅かな隙間をくぐり抜けたり・・。
製材される順番を待つ木材の原木置き場が私の格好の遊び場で
お人形なんかでは少しも遊んでいないのだった!
時代は違えども材木屋の娘の遊びは同じなのだと考えながら少しおかしくなった。
今ではすっかり真面目に大人しく変身してはいても、「おてんば、じゃじゃ馬、暴れ馬」と時々人にいわれてしまうのは、こうした原体験故なのかも知れないと・・(笑)。
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by uneme_tayuu | 2006-06-17 19:48 | 竈の家紹介 | Comments(5)

修繕と絆

奥座敷南側の縁側。
ナンドの次に荒れていたのがここ。
ナンドと違って、原因は雨漏りではなく、地盤の沈下による家の傾きだった。

空き家となって間もなくの頃、追い討ちをかけるように、近所の悪戯好き小学生の手によって、掃き出し窓のガラスが割られた。
以来、ここは合板と仮筋違で打ち付けられた閉ざされた空間となっていた。
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有難いことにここにも修繕の声があがった。

打ち付けられた合板が取り外され、ジャッキで傾いた躯体を持ち上げただけで、建具のすべりが随分とよくなった。
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仕上げは勿論鉋がけ。腕自慢の大工がサーっとひと掛けするだけで見違えるように敷居も鴨居もよみがえる。
無垢材を使っているからできることかもしれない。


「100年前の人に話は聞けないですからね。でもこの建物が教えてくれますよね。」
の名言に観客席から歓声があがった。
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***
こうした家の修繕のきっかけを作ってくれた、今では私の最も信頼する竈フードコーディネーターと竈の会の定期開催を提唱した五月組親方の二人が、きょう、時の記念日に入籍をする。
愛・地球博が縁で出逢った二人だ。この家も万博と二人の出逢いがなければ、ここまで手直され、広く一般に利用されることはなかったに違いない。
万博を通して繋がった輪に感謝しながら、二人には、この竈の家と同じくさりげない、二人だけの永遠の時を刻み続けていって欲しいと心から願う。
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by uneme_tayuu | 2006-06-10 12:12 | 竈の家紹介 | Comments(12)

ナンド

ダイドコの奥にあるのがナンドと言われる部屋。
ここで家族が寝起きした。
私が生まれたときすでに父母の生活の場は現在の地に移っていたが、
家業で忙しかった母に代わり祖母が私の面倒をみることがよくあった幼い頃、遊び疲れて寝かされたのがこの部屋で、
2年前、この家の再利用を思い立って閉め切った雨戸を開けたとき、一番荒れていたのもこの部屋だった。

原因は雨漏り。数箇所で屋根の瓦が割れていた。
庭に予備の瓦が残してあったので、据え変えようと助っ人を頼んだが、よくよく見ると瓦はどれも形の違うさん瓦とがんぶり瓦で、合うものはなかった。
応急措置で、離れの便所の瓦を割れた瓦と据え変えた。
以来、雨漏りはおさまったが、床や柱・梁、壁は5年のうちに相当の損傷を受けていた。


そんな荒れたナンドに、ある日朗報が持ち上がった。
それは、出入りの竈メンバーに取材カメラが廻るというテレビの特番企画。
ロケ地に選ばれたのが「竈の家」だった。
収録の内容は、勿論、作りごとなどではなく、我々がやっていることであり、やろうとしていること。つまり、竈で炊いたおにぎりご飯を楽しむ「竈の会」を開きながら、竈に代表される昔ながらの時間のかかる生活を再現しつつ、この住む人の居なくなった古い民家に手を入れていこうというもの。

手を入れるってどうやって?なんでテレビ局が?
そう思うかも知れない。
が、以前の記事でも紹介したように、最初にここに足を踏み入れた彼ら、現竈メンバーは、何を隠そう、正真正銘の本職大工なのだ。
それもテレビカメラが追うほどのマニアックなカリスマ大工達。

彼らを一躍有名にしたのは、昨年の愛・地球博で大人気だった「サツキとメイの家」。で、
「サツキとメイの家」を請負うために集まった技術者集団を五月組工務店と呼ぶのだが、その五月組の親方や棟梁ら幹部と最初にここにやってきた竈メンバーは不思議な縁で同じなのだ。


それぞれの仕事に戻り、忙しい日々を送るなか、撮影のための下準備がなされた。
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打合せ。
材料の拾い出し。
当日作業の前準備。
畳をめくり、土台を据えなおし、敷居を入れたのは前日の夜中だった。
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当日のロケは、万博が育み培った人と人のつながりを記録し、思わぬ縁から生まれたこの家の夢を映し、子供達に昔ながらの生活の知恵を授けもした。

そうして撮影の当日に出来上がったのが、この温かみのある杉の床板のナンド。
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雨漏り水をたっぷり含んだ畳が取り払われ、床に敷いた竹墨の効果も合間って、今は雨の日でもじめっとしたイヤな感じがなくなった。
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by uneme_tayuu | 2006-06-03 10:40 | 竈の家紹介 | Comments(5)

静かな時間

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坪庭というわけではないけれど、ダイドコから見える外の景色。
ときどき風を入れるためにやってきては、ここで一息つく。
冬の間は炬燵だったが、いまは、春らしくちゃぶ台と座布団に衣替え。

そのちゃぶ台に両肘をついて、抱え込むように両掌でカップを持つ。
そうしてちびりちびりと飲む珈琲は、なぜだろう特別な香りがする。
大勢もいいが、一人居もまた似合う。
静かな時間のなせる技。
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by uneme_tayuu | 2006-05-13 23:21 | 竈の家紹介 | Comments(2)

竈・かまど・カマド?

竈の家のカマドは、重文民家などでよく見かける土製のカマドではなく、洒落たタイル張りの西洋クドである。
カマドも時代により変遷があるが、おおむね大正時代の中ごろまでは、粘土質の土でできた土クドが主流であった。所謂ヘッツイである。
その後、大正の末期から昭和の初期になると、ロストルという格子状の鋳物の板を中に敷き、表面をレンガで固めた西洋クドが広く使われるようになる。
ロストルの上で薪を焚く西洋クドは、焚口の下に通気口があり煙突を付けているので、熱効率は土クドに比べてはるかによい。また灰も取り出しやすく勝手がよい。

市史によると、市域に残されているクドもほとんどがこの西洋クドであるそうだ。

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伯母の記憶によると、竈の家のカマド(通常オクドさんと呼ばれている)は、伯母がまだ小学生の頃、手先の器用な近所のカンイチさんの手によって土クドから造り替えられたのだそうだ。
伯母は大正生まれであるから、時代の流れと合致している。

今はなくなってしまっているが焚き口には鋳物の扉がつき、ロストルもあった。
今も残っている西洋クドとしての特徴は、煙が直接屋根の外へ出るよう工夫された煙突だが、その煙突もいまは中央で大きくひび割れ、応急措置でもたせてある危ういものだ。

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鍋釜をすえる釜口の数は、左からハソリ用、釜用、ステクド、さらに一回り大きなハソリ用の釜口と合計四つ。
f0044728_2391958.jpg大勢の家族が同居した当時の標準的な数である。
ちなみに、ステクドとは湯を沸かす専用の釜で、焚き口はなく両側の火力の余熱でひとりでに湯が沸く仕組みのもの。
表面に張られたタイルは装飾と耐火の役割をはたした。


***
さて、このように土クドから改良された西洋クドも、昭和30年頃から製造が始まったプロパンガスの普及により、ガスコンロにとってかわられることになる。
今またガスコンロは、IHクッキングヒーターにとってかわられようとし、人々が炎や煙を目にする機会はますます減っている。
***
火を使うことでヒトとなり、火を使わなくなりヒトはこの先何になるというのだろう?
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by uneme_tayuu | 2006-04-15 23:15 | 竈の家紹介 | Comments(2)

竈の家の背景

竈の家の入口には常夜灯がある。
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弘法大師ゆかりの大日の井戸にかかわる大日堂があった古い集落の中ほどの街道沿い。
街道は、今も昔の地名がそのまま残る近郊の集落に通じ、街道の北側には川が流れる。
その川を内部川といい、その川の対岸、支流足見川と合流する地点の丘陵地には、かつて采女城があった。
城は、文治年間(1185~1190)に伊勢平氏後藤兵衛門基清により築城されたと伝えられ、永禄11年(1568)織田信長の侵攻によって滅亡するまでは、代々、後藤家がこの地を治めていた。
その頃は、常夜灯の灯る城下の集落、古市場もよく栄えたと思う。

竈の家の前の常夜灯は、実は、それほど古くはない。明治9年(1876)に建替えられたもので、市域に残る常夜灯の中ではもっとも新しいものではないかと考える。

夕方辺りがほの暗くなると電気がともる。
夜道を車で向かうと闇の中で小さな明かりがポツリ。少し手前で確認できるその明かりは今もほどよい目印である。
周辺の無機質なプレハブ住宅が闇の中に隠れ、同じ場所に佇んでいた先代の常夜灯が、同じように往来する人々の手がかりとなった昔を想うのにちょうどよい。


【采女城の由来】
藤原氏を祖先とする後藤家の後藤兵衛実基は保元・平治の乱(1159)に武功を顕し、後藤左衛門基清が検非違使として京都守護に活躍、元久元年(1204)平賀朝雅の討伐に奮闘した。
後藤伊勢守基秀は、文応元年(1260)先陣武功があって、三重郡采女郷の地頭職となり一族郎党を引連れて采女の地に移住、采女山(北山)に城郭を築いた。
以来300有余年、連綿と治世して続いたが、後藤采女正藤勝の時、織田信長の侵略に遭った。
関家・蒲生家に一味して戦ったが、永禄11年(1568)ついに落城した。
言い伝えに因れば城主・藤勝は討ち死し千奈美姫も主郭の深井戸に身を投げて父の後を追った、哀れなり。
 (平成16年5月 内部郷土史研究会 采女城保存会 作成の案内板より引用)
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by uneme_tayuu | 2006-04-08 08:23 | 竈の家紹介 | Comments(4)

ようこそ竈の家へ

それほど辺鄙な田舎でもなく、にぎわう都会でもない。
何の変哲もないふつうの地方都市の外れに
これまた取り立てて目立つわけでもない、少々荒れた空き家がある。

7年程主人を持たぬまま世間から忘れ去られたその家に、
一年前のある冬の日、怪しげな大工風職人が数人やってきた。

彼らは勝手口から中へ入ると、早々と目的のものを見つけ、無邪気に声をあげる。
「あ、あるある!」「意外とおっきいね」「よっつもある!」
しばらく嘗めまわすようにじっくり眺め、
それからまたさらに思い思いのことを口にする。
その後、彼らは、管理人である私の不安をよそに
その目的のものを自由に且つ大胆に使い出す。

・・・・・・・・・・・・・・・・

それが、その家の『竈』に何年振りかで神様が戻った最初の日の様子。

そう、彼らは、私が管理する空き家に古い竈があることを聞きつけていて
竈でご飯が炊けるか試しにきたのだ。

祖母がまだ住んでいたときでさえ、寄り合いごと以外では
ほとんど使われることがなかった竈。
本当にご飯が炊けるのか?どうやって炊くのか?
みんな試行錯誤だったはずなのに、頬張ったご飯のふっくら美味しかったこと!

みんなが味をしめた。一気に夢が膨らんだ。
いつの間にか「竈の会」と称して不定期に人が集まるようにまでなった。

これは、そんな仲間との活動を記録しようと立ち上げたブログです。
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by uneme_tayuu | 2006-01-30 08:35 | 竈の家紹介 | Comments(10)