穀雨号 -今日は旧暦 3月24日です-

 穀雨(こくう)

田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころ。穀雨とは、穀
物の成長を助ける雨のことである。『暦便覧』には「春雨降りて百穀を
生化すればなり」と記されている。穀雨の終わりごろ(立夏直前)に八
十八夜がある。
(Wikipediaより抜粋)

私の住んでいる三重県美里では田んぼに水が入りはじめて早いところ
では田植が終わったところもあります。(おそらく全国的にみても三重
は田植が早いほうなのではないかと思います。田植えが早いので稲刈り
時期も早くお盆前に刈り入れが終わるところもあります。)これから梅
雨に入るあたりまで池が沢山誕生したようにも見えるアジア的な美しい
風景が広がります。

先日鹿猟の取材を担当させていただく機会があり、鹿を解体するとこ
ろまでおつき合いさせてもらいました。
銃で仕留めた鹿を山から下ろし軽トラに積み込み解体する場所に運び、
足を広げてナイフで腹を割ります。
狩猟を見せてくれた方はひとつ、ひとつ丁寧に手順を解説してくれま
す。腹を割きはじめると「どばっ」と血が流れてきます。「いきもの」
にはこんなにもたくさんの血液があるのか、というほど多量です。内臓
類の存在もしっかり確認できます。
また鹿肉を清潔なところで解体する必要性、ということについても学
ばせてもらうことができました。
解体を進めて行くところを見せてもらいながら「解体」とは肉体を使
うことだな、と改めて感じていました。
「血」を見ることで生き物であることをはっきりと認識する。見せて
もらいながらお節介かもしれないが「解体」というところはどこかで見
ておいた方が良いのではないか?と考えはじめました。

生き物をいただく前の行程を見ること、そのことは正しいとか正しく
ないとか、〇とか×とか、2者選択ということでは無く、余計なお世話
かもしれないが、いくらかの年齢に達するまでに一度は見ておくことが
必要なのでは無いかと考えて見た。
「血」をみることや食肉を流通するところをみて学ぶこと。「生きて
いる物を食べるということは生き物を血を出して殺してそれを食べれる
ように加工して私たちの口に入っていただく、ということなのだ。」そ
んなことを極力自然な感じで「みる」機会があれば感覚の中にいい意味
で入り込んでくれるのでは無いか? そんなことを思ったのです。

若い人達に聞いたことがあるのですが最近では小学校などで鮒の解剖
も蛙の解剖もやらないところもあるようです。それは何故だろう?
「かわいそうだから?」なのか? なぜ小学校など義務教育で解剖を
行わないのか? 私には全く分からない。
仮に「かわいそう」ということが起因しているならば、そのことは経
験を無理矢理奪うことになってはしないだろうか?ほんとに教育関係者
が「解剖は止めよう」と進めたのだろうか? 何故?

目の前の鹿の解体を見せてもらいながら、そんなことを思い浮かべて
考えてみた。実体を見ることは時に経験として「つらい」こともあるか
もしれない。それでも重要な点は「かわいそう」と感じる行為を通過し
た上で私たちの口に入る「たべもの」たちがあるということだと思う。
一つの行為をみて「かわいそう」というように簡単、単純に吐かれた
言葉が一人歩きして様々な事柄の経験を遠ざけているとすると、それは
その経験をできなかった人が逆説的に「かわいそう」ということになり
はしないのか?(これは私の単純な思い込みであるかもしれませんが)
それはいろんなところで「実体を知らない」という人を生み出している
ことになりはしないのか?

デジタルコンテンツの時代情報と実体験、この双方の融合がとても大
切だと感じた今回の取材体験でした。

皆さんはどのように考えますか?


◆私からのお知らせです。
昔から続く印画紙に光を当てて暗い部屋で制作したアナログ白黒プリ
ントによる写真展を美里に開設したギャラリーで4月30まで開催してま
す。
詳細情報は下記アドレスにて。
http://www.matsubara-yutaka.com/gallery/


 写真師松原
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by uneme_tayuu | 2017-04-20 16:03 | 暮らし暦 | Comments(0)
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